2010年5月31日月曜日

センシティブな私の事情

 
私は飽き性で、毎日繰り返される同じテンポでの会話ができない。
「精神的な三半規管が弱い」のかもしれない。ぐるぐるぐるぐる、同じ方向に回り続けて悪酔いしてしまう、あのカンジのようでもある。
同じ口調、同じ語尾であれば、ちょっとづつ変化をもたせたい。できれば話し言葉も文章も、一度使ったネタを二度使わない、ぐらいの覇気が欲しいと、かなり贅沢なことを日々考えている。

そういうことを思い巡らして生きているのが好きなのだ。

だから同じ人とずっと喋り続けることができない。昔から女子グループで馴れあえずに、一人で過ごすことが多かった事情も、大方そこいらへんだ。
そのためによく人には誤解をされるし、その誤解を解くのも面倒なので、誤解させっ放しだ。私は誰のことを好きでも嫌いでもない。相手が私のことを好きか嫌いかで、ちょうど良い距離感ができる。

しかしそんな事情は、いちいち人に伝えても仕方が無い。私は私の都合で喋るし、他人は他人の都合で喋る。それだけのことだ。
また、こんなセンシティブな自分の事情を、他人に理解してもらえるとは思っていない。説明したところで、せいぜい「もう少し人に合わせよう」といった感想を持たれるだけで。
ただ人に合わせていて、あまりにも自分に嘘をつく状態が続くと、確実に身体を壊すから、自衛の意味でも私は不必要にそれをしない。

理解してもらうのに言葉足らずにならざるを得ないというよりも、どれだけ言葉を尽くしても及ばない理解というのもある。

人間は孤独だ。15歳の時、文集にそんな詩を書いた。あの年頃からそう思っていた。
孤独に耐える、孤独に向き合う術、もしくは孤独の扱い方を知っているのが大人なのだ。友だち恋しい思春期にそのことを悟ってから、私は孤独に慣れ親しんだ。
不思議なもので、他人は容易に私を裏切るが、孤独だけは私を裏切らない。孤独は親友だ。

だからなのか、私などは充足していることが不安になる。ちょっと淋しいくらいが何気に気持ちがいいと感じてしまうのだが、…そういうことを他人に理解してもらうのは、本当に難しい。
私からすれば何がポジティブなのかわからない、世の中の奇妙なポジティブ思考の強要には疲れてしまう。

人にすがって埋まる心の穴を知らない。 あれはいつだって、日にち薬だった。
思いはいつだって届かない。 多分、風に舞っているんだろう。
私はこういった者なのだ。
 

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