2010年6月10日木曜日

現実逃避ついでに「真実」について考えている

 
やらなければならないことというのは、なかなかできない。
私は大抵のことを、現実逃避する中から学んできたと思う。だから、やらなければならないことをやらないのも、長い目で見ればそんなに悪いことではないかもしれない。大切なことは、自分に嘘をつかない、ということだ。

資格試験の日が近づいているが、どうしても勉強をする気になれない。
勉強をしなければならないことはわかっているけれど、ついつい試験とは関係の無い本に誘惑されてしまう。


この本の著者、鴨居羊子は下着をデザインする以前は新聞記者だった。その頃の彼女の同僚の新聞記者の台詞に、ふと何かひっかかる。

新聞は歴史、いや記録になっちゃおしまいだ。記事は社会をクリエートしなくちゃいけない。

ニワトリが先か卵が先か。記事は社会をクリエイト、ということは、社会が記事をクリエイトしたのではない。
これを見て、ふいに私は新約聖書のヨハネの福音書の冒頭を思い出した。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。…」
要するに、社会は捏造記事によって捏造されてきた、ということか。

またあるいは、鴨居羊子自身が記者生活に希望を見失う様子の記述の中で、こんなことを言っている。

私はクシャクシャと破られてゴミバコへすてられた。真実はボツになった。既成のワクに入らない真実は、彼(デスク)の求める記事には遠いらしかった。

捏造記事と情報統制の蔓延は今にはじまったことではない、ということが伝わってくる。情報源が腐っているなら、愚衆が愚衆なのは仕方がない。むしろ、その中で「賢い人」って、一体何なんだろうという気すらする。確かに私とて、五年続けているこのブログに「本当のこと」を書いているなどとは思っていないし、そのつもりもないが。
私もいい大人になったけれど、こんなにも騙され続けて生きていたと、ようやく思い知るようになった。
このように世の中は「嘘だらけ」だと思うにも関わらず、芯の部分では「真実」を感じているのは何故だろう。などと、思えるから私は騙されていたと落胆せずに生きていけるのかもしれない。

と言いつつ、そういえば私は以前、「真実=本当のこと」がある体で記事を書いたことがあった。()どうして私には「真実」を求める衝動があるのだろう。
「真実」が私の依り代だと私が思い込んでいるのは、単なる刷り込みなのかもしれないが、「真実」に対して刷り込み以上のものを求めている、この私の思いの深さって、何だ。
そもそも、「真実」って、何だ。

 

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