2010年7月16日金曜日

『粘土砂漠』

 
そろそろ私のブログに「嘘つきアーニャ 読書感想文」()の検索でのアクセスが多くなる季節が来ようとしているが、過去のブログにはGooglebotが巡回しない設定にしてあるので、もう今後その検索ワードで私のブログが引っ掛かることも無いかもしれない。
だから、手前味噌ながら、リンクだけ貼っておく。→※『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2008年8月23日)

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』もいいが、もうひとつ、私が近頃ハマりこんでいる、旧ソ連の反革命的作家・プラトーノフの『粘土砂漠』も、中高生の夏休みの宿題にオススメの物語だ。
中学生にはちょっと難しいかもしれないが、40ページほどの短い物語であることと、14歳の少女と、その子が孕んで産んで育った12歳の少女の目線で物語が進むので、同じ年頃の子が読んでみると、その衝撃も大人と違ったものになるかもしれない。
幼い心で真に受けてこの物語を読むなら、今確かに足を踏みしめている価値観の世界は崩壊する。けれど、ありがたいことに、これはただの「物語」だ。今の時代だからこそ、後々の人生で昇華していく悩みと課題として、37歳のオバちゃんはこれをサディスティックに薦めてみたい。
もしも、将来物書きや文豪を志そうというお子であれば、中学生でもこれくらいは読んでおいて差し支えないし、切り口を変えて踏み込んでいけば、どんどん深みにハマっていける物語なので、若いうちに触れておいて、追々「そういえば…」と思い出して思索を深めてもいけるだろう。

さて。
思想も言葉も男性のもので、それらを女性が持つことが許されなかった世界での話。またこれは、女性のまなざしから描かれている物語だけれど、これを書いたプラトーノフは、ロシアのオッちゃんである。

ロシア革命の頃の中央アジア。トルクメニスタンとイランの国境あたりの砂漠が舞台。
略奪された女は「女奴隷」「ペルシア女」などと呼ばれ、それらの呼称は、ザリン・タージやジュマリといった主に登場する女性たちの固有名詞と並列の肩書きなのだ。
父母の顔も知らぬ孤児だった14歳の乙女は、捕虜として連れ去られ、連れ去った40歳ほどの男に孕まされる。

略奪婚というやつである。

…そういえば以前、チェチェン人の医師ハッサン・バイエフも著書で「略奪婚はちょっと前までフツーにあったよ」などと仰っていた。姉妹が略奪されたので、奪い戻しに行ったりとかなんとか。(
また、国は変わるが、映画『チベットの女~イシの生涯』の主人公のイシも、テンジンという剛毅なカムパに略奪されて婚姻関係に至ったのだった。

略奪婚。元々、この世界はこんな風だったのかもしれない。
今の私であれば、残念ながら、頼んでも誰も略奪してくれまい。

しかし、婚姻関係にあっても、物のように売り買いされる奴隷という立場である。
物語の中の「好き勝手できない女」という他人の人生を味わいながら、今私が好き勝手できる立場であるということは、巨万の富を使いあぐねているよりも贅沢なことだと思った。

略奪された14歳の少女は、その意志とは無関係に、愛してもいない男の寵愛を受け、男の他の妻や妾からやっかみを受ける。
しかし少女は、幸せを保つには、ごく普通に生きていくことが必要だと、遊牧民の普通の暮らし、羊や山羊の世話に暮れる日々に没頭する。

少女は小鳥の夢を見る。
どこかぽつんと木が一本生え、その枝に小さなつまらぬ小鳥がとまって、傲慢にゆっくりと歌を歌っている…。


少女は、夢の中の小鳥のように生きていこうと決心する。

しかし少女は、少女ではなく「女」と呼ばれるようになり、やがて病に倒れて、死人として棄てられる時、かつて自分を寵愛した男は死人への言葉を投げかける。
あの世に行ったら神様に伝えてくれ。おれ一人だけこの世に生き残れるよう、あの世で言ってくれ!…云々。

そうして、女奴隷は死んだ。

と、こう書くと、何の救いも無い話だが、そんなことはない。
これは受け継がれる「魂」の物語で、女奴隷が見た夢を叶えたのは、その娘だった。「女奴隷」で「ペルシア女」だった母の夢の小鳥は、その娘だった。
娘は不自由を強いる略奪者の喉元に「力いっぱい」刃を突き立て、復讐を果たす。
本当の主人公は死んだ女奴隷ではなく、その娘の方で、隷属することに屈しなかった娘の有り様が(赤化という形ではあっても)この物語の希望である。
「隷属する女」の姿を念入りに描かなければ、最後に希望の星も輝かなかったということか。
またひょっとすると、自由という贅沢を手にするには、一世代では難しく、隷属の業から解き放たれるのはその次世代なのかも。何しろ手間ヒマがかかることだ。
 




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