2010年8月14日土曜日

神を語ろう

 
四年前、『一日一行読むコーラン』と題して、ちびちびコーランを読んでブログにその感想をしたためていた。
ブログを転々としながら、この間までアメブロで再掲していたのだが、慣れないアメブロの使いづらさに萎えて閉鎖した。再開の予定は今のところ無い。

コーランを読んでいる頃のクリスマスに、私は喜捨せよアッラーの道に惜しみなく財を使えということが頭にあって、三千円ばかり、寄付金控除にもならない額を善意で募金した。
その大晦日、10枚連番で買った年末ジャンボ宝くじの当選を調べると、4等と5等が当たっていた。
宝くじの元手の三千円が返ってきた上に、300円の釣がきた。
そのキャッシュバックの早さは、リー即ツーモーぐらいの早さだった。


「自分で稼いだだけのものが与えられる」

「何事によらず、自分から進んで善事をなす者は、善い報いを受けるもの」


私が「神、いる。信じよう」と、最も戦慄をおぼえたのは、この出来事だった。
実に、唯一神の名前が「ヤハウェ」だか「アッラー」だか「ヤソ神」だか何だかは知らない。
そんなわけで、私は無宗教の異邦人だが、唯一神は信じている。今の時代、私みたいな人も相当数いるんだろう。

この上なく人間が傲慢になったこの時代に、今更「神を語る」のは陳腐な気もするが、私がここまで生きるために集めた材料で思う、神を語ろう。

聖☆おにいさん』()でも、登場するのがイエスとブッダだけだという理由は、回教は特に「聖人や神様を描いちゃいけない」からなんだとか。
しかし戒律がどうのという以前に、神の姿を描くことはできない。描いても、描ききることはできない。こうして思いを文章化しようとしても、自分自身の思いの全てですら掌握できず、がさがさの行間を埋めることができない。
にも関わらず描かれた神の姿は、所詮「偶像」に過ぎないのだが、暗闇の中で頼りなく、足元のおぼつかない人であればこそ、何かにつけて依り代を必要とするので、偶像であってもあれば有難いものだと、無宗教の私は思う。

また自己愛は「衝動」だが、いわゆる神の愛とはその「衝動を育て育む」ものなのだと私は思っている。

暗闇の不安の中で自己愛による「衝動」から生まれた偶像であっても、それを大切に守り抜こうとするのも、ある意味「衝動を育て育む」神の愛なのかもしれない。

偶像を生む人間の文化には「衝動」が宿っている。
しかし突き詰めると、「衝動」である自己愛自体も神の愛で、神は、神自身と戦っているのがこの世の真理なのだろうと、私は思っている。

「衝動」も神。それを育てるのも神。
神は、神自身と戦っている。
それが神ご自身の性質なのだ。

と突き詰めていくと、ひょっとすると今のところ、私にとって根本はゾロアスター教が近いのかもしれない。
だからといって、ゾロアスター教に入信するでもない、何であれ、人間が集団になるとロクなことがないと思うのが私の信条だから。

宗派や宗教団体というのは、人とつながるネットワークのためにあるもので、直接信仰に結びつくもののようには私には思えない。
そして、別のネットワークが互いに利益があるならば共存することも、逆に火種を落としてむげに争わせることも可能だと気付いた、地球を掌で転がして遊びたい輩が、この世界にはいるんだろう。
そいつはきっと、その取り巻きたちにこんな風に言っているのだ。

   人類を労働に依存させよ。遊興に依存させよ。
   文明に、文化に、あらゆる「幸福」と人が呼ぶものに。
   もっとこの薬物を投入せよ。
   もっとこの快楽に依存させよ。
   もしも停滞するならば、戦争をせよ

などと。
私はそういう輩の背後にまわって、後頭部をじっと眺めてやりたい。




 

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