2010年8月10日火曜日

終戦記念日を前に

 
毎年、終戦記念日には「終戦記念日」の記事を書くようにしていた。
それは、現代の日本人の魂が、ここにこそあると思っていたからである。
しかし、それも失われつつある。
何しろ若い学校の先生が教壇で「朝鮮戦争は韓国の人がアメリカに戦争を売ったからはじまった」などと、教えてしまう昨今である。
自治労のビラに沖縄問題が丁寧に書かれてあっても、それに目を通すこともせず、「何も知らない」と言ってはリゾート・アイランド沖縄をウキウキ目指す、若い公無員たち。そんな彼らは瞳を輝かせて満面の笑みで言うのだ。
「沖縄に移住したぁ~い♪」

非常にデリケートな問題で、真偽のほどが何が何やらさっぱりわからん、という事情を加味しても。
真実を、せめて真摯に知ろうとする態度は失わない方がいい。それを受け止められる強さも、生きていく上では欠かせないだろうと、私は思っていたけれど。

これが今の日本の現状。

この国は、幸せで溢れかえっているのだ。

知らされることもなく、情報は選り好みできる現在、「戦争」は日本人同士で共有できる記憶ではなくなっている。「怖いし暗いし面倒臭いし、嫌な話だから聞きたくない、知りたくない」と言えば、何も知らずに自分の好きな「明るく楽しいもの」に囲まれて生きていくことができる。

言葉はできるだけ、咀嚼しやすく、耳に心地よいものが好まれる。

「ふつうの人」は、他人の痛みは自分には痛みではないし、他人の悩みは所詮他人の悩みだし。
核弾頭も原発の放射能漏れも、自分さえその被害に遭わなければどうでもいいことで、小難しい議論を交わす力など持ち合わせていない。

「もし核爆弾が頭の上に落ちてきたら、どうする?」→「とりあえず、海外に逃げる」

今、自分が幸せになることで、精一杯。とにかく一生懸命やっていれば、誰もが幸せになれると、信じていさえすればいい。そんな彼らは、地盤を揺るがしかねない構造的な問題には決して触れようとはしない。だましだまし、要領よく立ち回って生き抜いたもの勝ちという価値観に支えられている。

こうしてみると、ある意味大勢の「ふつうの人」というのは、恐ろしい。
よくぞこの国の親や教師たちは、こんなこぢんまりと立派な「ふつうの人」を大勢育て上げた。

地球上の全人類が、戦争への依存から抜け出せないものかと、私は度々、思いを深くする。
それには、どれほどの歳月、どれほどの知恵が搾り出されねばならないのだろうか。
 

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