2010年8月31日火曜日

立っている地平線が違うとはいえ

 
  仲居(一ヶ月)
  女優(二ヵ月半)
  町娘(六ヶ月)
  夫もち(一ヵ年)
  田舎出(七ヶ月~最高四年)
  女工(二カ年半~最高五年)

上記は『女工哀史』より引用。( )内は私娼十人に対する勤め高。
私娼が稼ぐ額を、仲居であれば一ヶ月かかり、女優であれば二ヶ月かかり…、ということのようだ。
女工出身の醜業婦は他の職業出身者より一ばん永続する理由のひとつとして、これが挙げられていた。
『女工哀史』の当時、地味で暗くキツい奴隷労働の女工よりも、着飾ることのできる、華のある暮らしとして、娼婦になる道を選ぶ人も大勢いたということだ。

女郎においては大抵な生活欲は満たされるけれど、労働婦人にはほとんどこの自由がない。しかし彼女たちがいかにこの物質的「美」の享楽に憧れているかは…云々。

とある。

昔、女性は社会に出るといっても、職業の選択肢が少なかったことはわかった。しかし、こんなことを考えていていいのか、とは思ったが、今尚、女はこの上のいずれかに分類できるように、私には思えてきた。

クラスの数名で女子会をした。
クラスメイトにならなければ、決して理解することのできなかったような、お互いに「立っている地平線が違うな」と思うような者同士、異種格闘技ともいえる奇妙な交流だった。
「お前は男を大勢犯しているんだろう」と、明らかに私から見て「娼婦」に分類できる子に、そんな突っ込みを入れると、「娼婦」は「はい、ごめんなさい」と言いつつ、亭主とのセックスレスを打ち明けて、その話で盛り上がる。
「夫もち」が話に乗っかり、連れ合いとの「まるで蝉の一生」のような性生活を語り、大笑いになる。

「え、何秒?もう終わり?私、蝉かと思ったわ」

早く出産したい「仲居」はだめんず・うぉ~か~だし、その様子を「立っている地平線が違う」と思って傍観している私は、一体何だろう。「女工」のようで「女優」のようで。芸妓だろうか。
しかし、何がいいのかは本当にわからない。立っている地平線が違うのに、自分の目線で妙案を語っても押し付けになりかねず、あまり意味が無いように思ってみたり。また、私と同じ地平線がどこかに存在するのかどうかすら知らない。すると「町娘」が、

「立っている地平線が違う人同士が思っていることを言うからこそ、コミュニケーションがはじまる」

などと、私は納得させられてしまった。
私はダンナのチンポしか知らない貞淑な者である(と言っても、実際暗がりで眼鏡を外して見るので、その形状はよく見えていない)。(
貞淑な者は本来ならば、こんな時は話の腰を折りかねないので、何も言わずに黙って話に耳を傾けることが多いのだが、私があえて発言するのは、何も言わなければ貞淑な者が淘汰された状態が「常識」としてまかり通ってしまうからだ。

さて。

子宮頸がんワクチンの公費助成はいいことだが、それを「思春期の女の子全員」に受けさせる思想があるとしたら、これは違うと私は思う。私が「思春期の女の子」だとしたら拒否するだろうし、娘を持つ親の立場であってもそうするだろう。
自分の身を守るのは自分。自分の身を守る術のために知恵を絞ることが大事なのであって、その原則が失われることはむしろ危険だ。
身を守る術は幾通りかあるだろう。その術が公的な押し付けになると腑に落ちない。何より、怪しげな製薬会社を肥え太らせることに安易に加担するのは、違うだろ、と思う。(

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