2010年9月19日日曜日

恐ろしい人間のカタマリ

 
マズローの欲求五段階説が、なんか違う。

生理的欲求→安全の欲求→帰属(所属)の欲求→自我の欲求→自己実現

がマズローの唱えた説だが、私の中では、

生理的欲求→安全の欲求→自我の欲求→自己実現→帰属(所属)の欲求

になる。
帰属の欲求というのが、もうひとつ私には希薄だったかもしれない。

人として生まれてきている時点で人類に帰属しているという安心感があるかもしれない。また、自分自身が何だか分らぬままに集団に所属して集団に振り回されると、遡って自我の欲求が満たせなくなるし、自我の欲求が満たせない環境は危険で、安全の欲求も満たせない。

そもそも、人間が集団になるとロクなことはない、と思っている。
そんな風に思うようになったのは、小学六年の時にクラスの男子にいじめられてからか。まぁ、「いじめ」というか「嫌われ」だな。凄いのは、「男子がいじめる」となると、「かわいい女の子グループ」がそれに同調して、私はクラスの大半からいじめられることになった。クラスで優位な子らに逆らうような危険は誰も冒さない。

今年の7月に故人になられた、京大名誉教授の数学者森毅のエッセイに、こんな一文があった。

ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
たとえば、近所に鬼がわらのような顔の子がいて、「鬼の子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親が涙を流して飛び出してきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを理解していないことが多い。

いじめの卑怯さを理解する上で、衝撃的で分りやすかった。私自身、身に覚えがある。

幼稚園の頃、向かいの家に住む男の子が、私の家の裏の女の子をいじめるのに同調してしまった。小学六年の時に私の身にふりかかったことは、幼いかつての私の罪への制裁で、当然の報いだったのだ。
そんなわけで、小学六年の時の事件は、私がかつてしでかしたことを心に刻んで改悛する機会にもなった。

以後、「仲良しグループ」の排他性に、どうしても耐えられなくなった。
薄気味悪い「仲良しグループ」で机を引っ付けてお弁当を食べるという白々しさに耐えるより、一人で弁当を食べる方が私には楽だった。
更に笑かすのは、度々そういった「仲良しグループ」のクラスターから排除される子がちらほら出てきて、その子は一人でお弁当を食べる勇気が無いので、一人で弁当を食べる私のところに都合よく来て「一緒にお弁当食べよ」と言ってくる。私はお地蔵さんか。
そうしてそういう子は数回私と弁当を食べると、また元のグループに戻っていくか、他所のグループに移るかするのである。

所属欲求というのは、私からすれば、本当に「なんだかな」と思うものなんだが。

しかし、お陰で私は随分大人になったし、地味なヲタクっぽい非モテの子らなどは、こういったうねりに乗ることがないということもわかった。
恐らくいじめや差別などは、やる人はやるし、やらない人はやらない、というものに過ぎない。それをやる奴ら、させる奴らが、そんなことをしてまで所属欲求を満たしたいという、性根の卑しい困った奴らであることがほとんどだ。

下らない集団には、自分から引導を渡してしまう方が、確かに清清しい。
それで死ぬとしても、それもひとつの自己実現だ。自分が選んだ道ならば、まずは悔いは無かろう。


 

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