2010年11月17日水曜日

千年もの歳月だ。他人の生活というものは、さほどにまで遠く、さほどにまで別なものだ。

 
「仕事をたのしくするのは自らの仕事である」

と、妙なプロパガンダが壁にこっそり、これ見よがしに貼りつけてあった。先生が貼ったのだろう。

これとマリー・アントワネットの有名な「パンが無ければ、お菓子(ブリオッシュ)を食べなさい」は、その言葉を放った根源から、同質のニオイがする。

言葉は人を選ぶのか、「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」で説得力が違ってくる。

見渡すと、一生懸命仕事をしているふりをしなければならないある種の人々は、こうすれば人の心を動かせると、信じているらしく、本当に「かけ声」が好きだ。

本当に人の心を動かしたいなら、分をわきまえ、相手の目線をわきまえて、まずは上から物を申すのをやめればいいと私は思うが、この種の人々は、ぬるま湯育ちの陳腐な「平等」を盲信しているせいか、何が上か、何が人の心を傷つける落書きなのか、恐らくコアの部分を理解できない。私はそう感じた。

要するに、こういった手垢と悪臭にまみれた「かけ声」のごときでは、酸いも甘いも噛み分けざるを得なかった社会経験豊富な私の心は揺さぶられないわけだ。
この先生は10代の子どもを相手にしていた方が、余程いい仕事ができただろうに。…

千年もの歳月だ。他人の生活というものは、さほどにまで遠く、さほどにまで別なものだ。
(サン=テグジュペリ/『南方郵便機』より)

しかし考えてみると、こんなにも人との理解は隔たっているのだ。相手の目線がわかるということは、余程の才能か高等技術なのだということがわかる。相手のことを「理解している」という錯覚は、己の傲慢な心の幻惑だと、改めて痛感した。

相手の目線がわからないのに、相手のために「役に立っている」つもりになって、自己満足することが「ふつうのこと」だとしたら、実は世の中はおそろしく役立たずだらけ、ということだ。
役立たずが自己満足で完結してしまうせいか、自分の「役立ち」が相手を深く傷つけていたとしても、「知らなかった」「一つ勉強になった」と、言葉ひとつで片付いたつもりになって、本当の学びにつながっているのか、アヤしい。
しかし、そういうことは、死にたくなるほどに、ままあることなのだ。

この人生では、まず何よりも理不尽に対する忍耐を学ばされるのだ、きっと。
 

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