2010年11月28日日曜日

私の最大の幸運について

 
昨年、父は死ぬ半年前に、うちのダンナに言った。

「あなたが(娘を)嫁に貰ってくれて、本当に感謝している」

その言葉がちゃんとダンナに伝わったおかげで、父も往生できたようだ。
父の散骨が済んで、私は血縁を切り、身寄りがダンナ一人しかいなくなった。

世の中には、家族とは名ばかりの家族がたくさんある。実際、私はそういうところから生まれてきた。世が世なら、間違いなく口減らしで売り飛ばされていた、すれっからしのどうでもいい二女だった。
今尚、幸せな家庭や、そこで育った人の話すことの意味がわからないし、むしろそういった話の輪の中では、いつも疎外感を感じるし、その場に居てはいけないような気になる。

生まれ育った家庭環境が良くないならば、優秀な人間ではないというならば、当然私は優秀ではない人間だろう。生家では褒めるところなどひとつもないとけなされ続けて、可愛げも無く、人の話を聞いても上の空で、ひとつのことを学んで要領よくこなすまでに、人の何倍も時間のかかる子だった。

だからまともに金銭を稼ぐこともできないだろうし、渡世の術もわからない。職場を探そうにも「優秀な人材」ばかりを求め続ける企業様には、私は受け入れ難い人材だろう。

しかし、神様は私をちゃんと見ていてくれたのだろう。神様は、こんな私を愛してくれる人に巡りあわせてくれた。
ダンナに出会えてよかった。それだけで、私が生まれてきた甲斐があったといえる。

普段の私はきっと女ではない。
普段の社会的な女の姿形は「女性である」という擬態であって、男女共に多くの人がその擬態に騙され、憧れるものだと思う。私がダンナに出会えたことで、自分自身を生粋の女であると実感した、それは、人生の中ではほんの僅かな瞬間に過ぎないが、その瞬間があったということが、とても大事だ。


さて、私は、世の理不尽から、ダンナと離れ離れで暮らさなければならない期間が長かった。
何気ない時間の多くを共に過ごした人を、大切な人、と呼ぶのだと思う。それを、その何気ない時間を共に過ごせなくなった時に気づくのだ。

やはり何かを失えば、それは大抵失ったままだ。
「何も失わない」それは、愛を知らない、無様で憐れな人だ。
何事も金で解決できるはずはなく、それでもこの世の多くは「金、金」と言う。
金も愛もいのちも一体になっており、金を失えば全てを失うから、あれらは「金、金」と言う。きっとこの世の人間のシステムの中で生きていれば、そのように訓練され、飼いならされてしまうのだろう。

生家では子どもでなければならず、社会の中では女の擬態の競争に疲弊していた私を、女として愛してくれたのは、ダンナただ一人だけである。これが私の最大の幸運だろう。
この幸運は金では買えないと、それを理解できる人が、今この国に、この世界にどのくらいいるだろう。
 

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