2010年12月22日水曜日

やはり裕福な人には喜捨の精神が必要だ

 
職業訓練校だから、クラスメイトは雇用保険か、私のように生活支援給付金を受給しながら通っている人が殆どだが、比較的裕福な子が多い。中にはそういう公的支援をイタズラに受給して、失業期間を長引かせて物見遊山気分なのか、と言いたくなる人もいる。
大卒で海外生活経験もあり外国語も話せて、「服が好きだから」と適当な理由で、特に縫製の技術を身につけてその道に進もうというのではなかったり。こういう人が本当に「服が好き」なら、もっとちゃんとした学校を選ぶか、それこそ海外へ出て勉強するものだから、これはニワカであることは明らかなのだ。

こういう人が職業訓練校に入学する影で、学歴が低かったり、母子家庭だったりという、本当に生活する手段を身につけるべき大勢の人が振り落とされているのが現状としてあるかもしれない。

こういう人に「私と同じ立場」として傍らにいられると、生活が裕福ではない私のような者は、何だか、そこに居られないぐらいみじめな気持ちにる。私の、単純に「工業用ミシンを動かしたい」「縫製技術を習得したい」という純粋な目的が、「そんな金にならないもの」と嘲笑われているような。
そんな中で、心が折れそうになりながら、どうにかやっているけれど、自分がみじめであるという思いを抱いたままでは、今後何かを成すのは難しい。

一生懸命生活手段を得る勉強をしなければならない人と、そうでない、カルチャースクールにでも通うようなノリで勉強する、暮らしにゆとりのある裕福な人と、学校には棲み分けが要ると思う。
そうでないと、思いを共有するとか、それによって仲間意識を持つということが難しくなるから、どのみちうわべの付き合いに終始しなければならなくなる。

四六時中笑顔を振りまいて、共感しているふりをし続けるのは一苦労だ。

やはり裕福な人には、喜捨の精神が必要だ。かつて読んだコーランを振り返って、つくづく思った。
喜捨の精神がもしもあったなら、人に譲るべきところでそれができるだろうに、がめついというか厚かましいというか、譲るべきところに気づけない鈍さが、むしろ卑しい。

この喜捨の精神がわからない、ただの成金が大勢いるだけでは、社会も国も地球も何も、ひたすら奪い合いに終始することになる。

言葉を尽くすのが馬鹿馬鹿しい、こういう連中が視界に入るたび、私は絶望的な気分を漂うことになる。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿