2011年1月30日日曜日

『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』

 
今日は誕生日だった。離れて暮らすダンナから、私に「出会えて、良かった」とメールがきた。
たとえ裕福な生活ではなくとも、明るく、楽しく、力強く生活できたらいい。私たちはそんな思いを共有している。

収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を読み終えた。

学生時代にロシア語を学び、社会主義運動に参加した山本さんが、共産主義国のラーゲリに囚われ痛めつけられ、ダモイ(帰還)は叶うことは無かったが、イデオロギーを超えた新たな境地に達しておられた。それを「平民の書」として、見つからないようにこっそりしたためておられたが、持ち出すことの叶わなかったそれは、幻の書、幻の思想となった。それはとても残念で、幻のその内容は興味をそそるものの、しかし仲間の暗誦によって口伝で山本さんの遺族に届けられた遺書は、これは山本個人の遺書ではない、ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ…

劇団四季の昭和三部作のうちのひとつ『異国の丘』の下敷きとなった物語だそうで、先頃読んだ『シベリア抑留―未完の悲劇』()より、内容は若干マイルドだったが、家族への想いを抱き、ダモイを夢見て耐えて叶わないとか、その無念さを思うと、今、ダンナに会えない私と通じるものがあり、涙を禁じえない。

 『異国の丘』~遺言~(YouTube)

しかし実際シベリア抑留は、この物語の山本さんのように、「立派な」人間だけが犠牲になったのではないから、この物語に触れて、立派な山本さん一人を賛美するのは違うだろうし、恐らくこの山本さんも、その感じ方に深く頷かれるだろう。


以下は『シベリア抑留―未完の悲劇』からの興味深かった箇所を引用。「ドイツ人の捕虜っぷりへの羨望」について。

帰還者の手記の中にはドイツ人捕虜たちの様子がしばしば記されている。多くは称賛と驚嘆である。いわくソ連におもねることなく毅然としていた。日本人捕虜のようにノルマ以上に働いてノルマを引き上げ、自らの首をしめるようなことはしなかった。

最低限の仕事をして、ソ連の監視兵の目を盗んでさぼる。国際法の規定で、将校は労働を免除されている。日本人捕虜は半ば強制されて「自主的労働」を申し出るが、ドイツ人はそんなことはしない。赤旗は掲げないし、労働歌も歌わない。

個人は別として、日本人のように集団で「民主化」されることはない。末端の兵までが国際法を熟知し、主張すべきことはきちんと主張する。そもそも、文化的に自分達のほうが優れていると確信しており、ソ連人を見下していた---といったものだ。

そうした「堂々たる捕虜ぶり」を伝える証言は極めて多い。国民性の違いか、あるいは対ソ連の歴史、関係性の違いか。いずれにせよ、日本人捕虜との違いは鮮明である。

日本の軍隊では、捕虜になることは恥辱として教えられた。捕虜となった場合、国際法で認められている権利について、兵士が教育されることもなかった。そしてこの捕虜を軽んずる風潮は、戦後の救済措置にも投影しているようにもみえる。

この度読んだ『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』にも、あった。

…ラーゲリにドイツ人俘虜といっしょに入れられていたときに、なん本か映画を観せられた。そのうちの一本で、ソ連の農村に侵入したドイツ軍の残虐ぶりを描いた映画が上映されたときのこと…。(中略)逃げ遅れた三歳ほどの女の子を狙って、翼にハーケンクロイツのマークをつけたドイツ軍戦闘機が機銃掃射を始める。その爆音が遠ざかったあと、田舎の小道に小さな女の子の屍が残るラストシーンになったとき、いっしょに観ていたドイツ人俘虜たちがいっせいに席を立って退場していった。
「いくらなんでも俺たちはあんなひどいことはしなかった」
立ち去るときにドイツ人のひとりが低い声で呟くのを、野本は聞いた。ラーゲリの映画会場に残っていたのは日本人たちだけだった。…
「ドイツ人たちは立ち去るときに、ぼくらに迷惑をかけないように足音をしのばせて静かに退場していったんです。民族としての自己主張を行動であらわしたんでしょうね」
「…日本人にも、きっとぼくたちなりの筋のとおし方というのがあるんだろうね」…

関係無いが因みに、私はここしばらく「シベリア抑留モノ」で、ひとり祭り状態だったため、「ダモイ」とか「アクチブ」とか「フハイカ」といった言葉から離れられず、うっかりそれらを日常会話で言ってしまいそうになる。
 

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