2011年2月28日月曜日

まるでスノーク家のしつけのようだが

 

「こども」の性交について、「ふつうのこと」「それが自然なことだから」と私が黙認したり推奨したりしない理由。
「ふつうのこと」「自然なこと」というのは腑に落ちない。不自然な社会を形成する人間がそれを「ふつう」だ「自然」だなどと、多くの人が聞きかじりをステレオタイプに口ずさんでいるだけだろう。
そしてもしも、私に子どもがいたなら、親として、以下のような説教を垂れていただろう。

セックスは、「おとな」がやることであって、「こども」のやることではない。
セックスをすれば即「おとな」になるのではなく、セックスをすること自体に責任を持てるのが「おとな」なのだ。

性交に伴う様々なリスクや責任を引き受けるか否かの判断力があって、はじめて「おとな」なのである。
その意味でも、世の中は「こども」が多いといえる。

性衝動は元々人間に内在するにせよ、それを使いこなす術は人との関わりの中で、何らかの情報から学ぶことが無ければ、行為に及ばないものではないか。
そして性情報というのは、人の虚をついて入り込む。「これがいいのだ」と言われれば、それがいいのかなと、知らない間にとり憑かれてしまう。特に年齢が若ければ若いほど。しかしそうして人間は、元々ある性欲につけ入られて、性癖を開花させていくものだろうと思う。

「こども」は、もともとある性欲につけ入られて、相手の意思を確認することもなく、もしくはその逆に自分の意思かどうかもわからぬまま、性的な行為におよぶ。加害者がいれば被害者が出る。

性的な行為の「やる・やらない」意思決定権は、自分にある。自分の身体は自分のものである。自分の身体を守るのは自分である。「こども」は、その「自分」がわかっていない。

意思決定権が自分に無い状況での性的な行為は「強制されている」ということだろう。「自分」がわかっていない人の意思決定の判断力とは、どんなものだろう。

果たしてそれでいいセックスができるものか、私ならば無理だと感じる。

そして、本当に若年の子どもの場合、自分自身を守りきれるだろうか。子どもに手を出す大人というのは、本当に卑怯なクズである。


しかし、「みんなやってるから」「やってないと恥ずかしいから」という10代の子の言葉には、引く。判断基準が「みんな」…、そうなのか。ふーん。相容れない。

「セックスは愛の行為」と、効力を失い、手垢にまみれた真っ当な言葉が、もう届かないものなのかという思いである。
 

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